世界の片隅から

世界の片隅から“いのち”を伝える 2025年6月号

執筆者
新田 義貴
映画監督・ジャーナリスト
大井教会[東京]

3 沖縄の“花売り娘”

映画監督・ジャーナリスト
新田 義貴(にった・よしたか)

 

6月、沖縄は慰霊の季節を迎える。人びとは23日の「慰霊の日」に向けて、各地にある慰霊碑を訪れ、祈りをささげる。戦後最初にできたとされるのが、旧摩文仁村米須(まぶにそんこめす)にある「魂魄(こんぱく)の塔」だ。12年前、この塔の横で参拝用の花を売る大屋初子(おおや・はつこ)さんと出会った。6月になるとほとんど毎日ここに立ち、慰霊客に菊の花を売っていた。激戦地だったこの付近には戦後、誰のものとも分からない遺骨が散乱していた。その骨を地元の人びとが拾い上げ、一ヵ所に集めて供養したのが魂魄の塔だ。塔には35,000柱の骨が納められた。ここにはいまだ遺骨が帰らない多くの沖縄の人びとが故人の供養に訪れる。

沖縄で最初の慰霊碑「魂魄の塔」

魂魄の塔で祈る遺族たち

 初子さん自身も沖縄戦の体験者だ。10歳の時に家族とともに壕を転々とした。最初に入った壕は初子さんたち家族が出た後にアメリカ軍による攻撃を受け、住民159名が犠牲となった。次に入った壕には日本兵がいた。叔母が怪我をして歩けないので入れてくれるよう懇願したが、「戦っているのは自分たちだ」と追い出された。最後に辿り着いた壕では、手榴弾で自らの命を絶つ集団自決が始まった。初子さんの家族も四つの手榴弾を持っていた。祖母が「早く死のう」と父を急(せ)かす。その時だ。初子さんは「死にたくない」と泣き叫び、「外に出たい」と懇願した。見かねた父が「初子の言うとおり、外に出て明かりを見てから死のう」と言い、外に出たところで家族はアメリカ軍の捕虜となった。

「死ぬのが怖いということもわからない年齢さね。だから家族のために神さまがその言葉を言わせたのかなと思うんです」。

戦後、初子さんは遺骨収集を手伝いながら魂魄の塔で花を売り始める。戦争の傷跡が生々しい時代、道ばたで摘んだ花でも飛ぶように売れた。その後、夫の農業を手伝いながらずっと花を売り続けてきた。6人の子どもを育て、いまは孫が13人、ひ孫が19人いる。あの戦争を生き延びたからこそ、いまこの幸せがあるのだと初子さんは言う。

「元気な人が花を供えて魂を静かに眠らせてあげてほしい。そして二度と戦争がないように。亡くなった人たちもそう思っているはずです。世界は丸くなさないといけないんです」。

初子さんは僕が制作したドキュメンタリー映画「摩文仁mabuni」の主人公だ。彼女は今年も慰霊の日、魂魄の塔の横に座っているだろう。最近は孫やひ孫が総出で手伝ってくれる。初子さんは監督役だ。人びとが死者を思う気持ちを美しい花に託して。

花売りの大屋初子さん

現在はひ孫たちが手伝う


ドキュメンタリー映画『摩文仁mabuni』:シアターイメージフォーラム
(東京・渋谷)にて6月21日からモーニング&レイトショー。
予告編 https://youtu.be/OjFzvHukg6M?si=X7AdcRqGefpg_ODu
※現在、クラウドファンディングに挑戦中です! https://motion-gallery.net/projects/mabuni

 

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