マインドコントロールとは
齋藤 篤(さいとう・あつし)
日本基督教団仙台宮城野教会 牧師
日本基督教団カルト問題連絡会世話人
日本基督教団東北教区センターエマオ 主事
『私たちの教会は、統一協会(家庭連合)・エホバの証人(ものみの塔)・モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)とは一切関係ありません。』
カルトという言葉とともに広く知られるようになったのが「マインドコントロール」という言葉です。「心を支配する」という意味です。
マインドコントロールとは何でしょうか。それは、人間の持つ「心理」を巧みに利用して、強制力をともなわない仕方、つまり、自分自身の判断と決断によって、自発的に言動を選択したように思わせるような操作を行う、という手法を取ります。ですから、自分がゆがんだ支配の渦に巻き込まれているという感覚をもたないまま「のめりこんでしまう」のです。
そして、マインドコントロールは導入部分においては非暴力的な手法を用いるものの、一旦支配の渦に巻き込むことに成功すれば、支配・被支配の関係性を拒み、その構造から逃れようとする者に対しては、暴力的な言動を行うことで、心理的にゆがんだ支配構造のなかに引き留めようとします。
さて、18世紀を代表するアメリカの神学者・牧師のひとりにジョナサン・エドワーズという人物がいます。彼は1741年『怒れる神の御手の中にある罪人』という説教を行いました。その説教は、人間の罪に対して、義なる神の正しい怒りと地獄の苦しみを強調することで、神による救いのみ業を示すという論調を用いました。簡単に言えば「地獄に落ちたくなかったら神を信じなさい」という脅迫的アプローチです。
当時の記録によると、エドワーズ氏が説教する時、聴衆は気絶や卒倒などの激しい反応を示したことが記されています。彼が用いた福音のアプローチは、災いや呪いを持ち出して、人びとに恐怖心を植え付けさせたうえで、何かを信じ込ませようという、非常に暴力的なものであると言えるでしょう。
マインドコントロールは、そこまで直接的なアプローチをすることはありません。マインドコントロールの肝は、カルト団体やその信者に対して、信頼感や安心感を得させることで、その後、ゆがんだ支配の渦に巻き込ませやすくするところにあります。そのなかで、少しずつ、少しずつ「神を信じなさい。でなければ地獄に落ちる」という思想を注入します。一遍に、突然ではなく、あくまでゆっくりと時間をかけてです。こうして、自分自身が「自発的に」そのことを選び取ったように思わせて、その人の思想・感情・行動を支配する。これがマインドコントロールにおけるプロセスなのです。
しかし、マインドコントロールの話を聞くと、その手法って教会でしていることと同じなのでは?という質問を受けることがあります。確かにそのように見えるかもしれませんが、それは「似て非なるもの」です。マインドコントロールの到達点は、あくまで教祖のような特定の人物が、ゆがんだ支配・被支配構造をつくりあげることにあります。神の名と存在を悪用し、人間が神となろうとするための有効な手段、それがマインドコントロールのなせる業なのです。
とはいえ、教会だから大丈夫ということはまったくありません。支配・被支配構造のあるところには、マインドコントロール的なアプローチによってカルト化する危険性はいくらでもあるのです。近年顕在化されている「教会のカルト化」の問題などが、その典型例と言えるでしょう。
だからこそ私たちには、自分自身が健全な思いをもって神に向き合っているかどうかの自己洞察、信仰共同体のあり方というものが、常に求められているのです。