エッセイ

めぐみのアルバム 2026年4月号

執筆者
塩谷 直也
所属
青山学院大学法学部教授 宗教主任

母の刻印

塩谷 直也(しおたに・なおや)
青山学院大学法学部教授 宗教主任

昨年、九三歳の母を天に送った。

もう地上で母と会うことはない。それなのに思わぬところで母と出会い始めている。彼女の遺品や写真を通してではない。私自身の言動を通してだ。
「ああ、疲れた」という何気ないつぶやき、そのイントネーション。あれ、聞き覚えがある。そうだ、母のつぶやき方と酷似している。ちょっと家族の様子を見ようとして椅子から立ち上がり、腰をちょいと曲げて別室を覗くその仕草 …このポーズ、母とそっくり。くしゃみ、力なく笑う、驚く、ぼんやりと相槌を打つ、またそのタイミングなど、いや、似ている。ダメだ。抗(あらが)えない。

単に似ているというよりも何気ない所作の核に母が隠れており、ひょっこり顔を出してくるのだ。気分を変えようと茶色い家具を青に塗り替えてみた。しかし時を経て、青いペンキはポロッとはげ落ち、当初の茶色が顔を出す感じ、と言ったら分かってもらえるか。

この「ひょっこり母」の存在に気づいて、中断していた母の遺品や写真の処分を再開した。それらの「物」を通さずとも、母の刻印が内面から語りかけてくるからだ。その刻印自体が、彼女の「遺品」なのだろう。

人の奥深くに、抗うことのできない刻印がある。そしてそれは、どんなに否定しても浮き出てくる。それが嬉しい人もいれば、つらい人もいよう。混乱し、押さえ込もうとする人もいるだろう。けれどどうあがいても、その刻印は生涯消えない。ならば、共存するしかあるまい。だから、かつて母が私をその胸に抱いたように、今私は母の刻印を胸の奥に抱えて歩く。

「抗えない刻印」は聖書にもある。それを聖書は「似姿」と表現する。
アダムは…彼の似姿として、彼のかたちに男の子を生んだ」 (創世記5・3a、以下新改訳2017)

きっととこの男の子の日常にも、アダムがひょっこり顔を出していたことだろう。もちろん似姿は親から受け継ぐだけにとどまらない。むしろ聖書は根源的な似姿、刻印を強調してやまない。

神は仰せられた。『さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう』」(同1・ab)

親の刻印よりはるか以前に与えられた刻印、それが「神の似姿」。この神の刻印が母のそれよりも深く力強く刻まれていることを願う。そうでなければ私は母の半端なコピーに過ぎないではないか。神の愛、慈しみ、正義、忍耐という所作が、私の内からひょっこり現れると期待する。親の刻印よりも更に深い地層に、神さまが住んでいることを信じながら。

1歳の頃に母と

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