エッセイ

食堂と教会のあいだで考えた“信徒の牧会学”? 2024年9月号

6 歌が生まれるということ

「よい物語食堂」店長/ふじみ教会(神奈川)
市川 詩音(いちかわ・しおん)

 

食堂でお皿を洗いながらラジオを聞いていると、ある文化人類学者の対談が流れてきた。

そこではこんなことが話されていた。エチオピアのある牧畜民は、子どもが10歳になると家畜の世話をさせるのだという。彼らにとって、何十頭もの家畜は一族の財産そのものである。そんな責任の重く、時には危険を伴う仕事を、子どもたちは学校にも行かずに朝から晩まで担うのだ。時には逃げ出す子もいるそうだ。そんな子どもたちにとっての楽しみは何なのだろう。文化人類学者の男性は、少年たちの牧畜の様子を話し始める。——家畜を野に放牧した子どもは、木の下に座って歌を作るんです。たとえば牛たちがコブをゆらしながら水を飲む姿を、美しい歌にするんです——。そして彼らは仲間と顔を合わせると互いに作った歌を披露しあい、一緒に歌うのだという。そんな彼らの姿を思い出す学者の男性の声が微かに弾んだ。

ラジオの横で、お皿を洗いながら考える。私たちが暮らしているのは、大抵のことがボタンひとつで済んでしまうような世界だ。部屋の明かりも、空調も、連絡手段も、指先ひとつで解決することができる。昔の人の誰もが羨(うらや)むような世界に暮らしながら、どこか魂が疲れているのを感じるのはどうしてだろう。ふと見渡してみれば、駅のホームで、近所のスーパーで、店の前の通学路で、すれ違う人びとの顔は、なんだか疲れているように見える。どこか急いでいて、どこかうわの空で、どこか不安げだ。どうしてだろう。現代日本では、少なくとも飢えることも、オオカミに襲われることも、寒さで凍(こご)えて死んでしまう恐れもほとんどない。こんなにも安全で、こんなにも便利なのに、どうしてみんなこんなに疲れているのだろう。

臨床心理士の東畑開人(とうはた・かいと)さんは、この社会を大海原(おおうなばら)に漂(ただよ)う小舟の群れに例える。かつての大きな船にみんなで乗って航海する時代は終わり、私たちはそれぞれが望もうが望まなかろうが、むき出しの小舟で大海に放り出されることになった。そこでは、遭難しようが、沈没しようが、自己責任。確かだと思っていたつながりも次々と切れていく。「僕らは今、ひどく孤独になりやすい社会で生きている」。あらゆるものが自由になった社会の中で私たちが感じているのは、自由の心地よさではなく、寄る辺なき小舟の脆弱(ぜいじゃく)さであり、不安であり、そんな社会そのものの生きづらさだった(『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』)。

店内の片隅に置いてある「日めくり まいにち べてる」の一日目には「今日も、明日も、明後日も、ずっと問題だらけ、それで順調!」とある。精神障害などさまざまな生きづらさを抱えて生きる人びとの共同体「べてるの家」では、起こりくる“問題”は失われたつながりを生み出す場として、大切に扱われる。“問題”や“弱さ”を自分だけのものにしないで仲間と共有していく、そんな営みの中で新たな言葉が生まれる。その言葉がまだ見ぬ誰かへと伝えられていく。「ずっと問題だらけ、それで順調!」誰もが生きづらさを抱える社会の中で、よい物語のはじまりが聴こえてくる。これなら、わたしも歌えるかもしれない。

※文章内の「精神障害」の表記につきましては、引用元の「べてるの家」の表記に沿って、このようにしています。

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