8 ユーモアを持ち続けること
「よい物語食堂」店長/ふじみ教会(神奈川)
市川 詩音(いちかわ・しおん)
厳しい夏が終わり、秋の風が吹き抜けるようになった。単調な日々を繰り返していると、お客さんに美味しかったと言ってもらえたとか、八百屋さんにおまけしてもらえたとか、向かいにケバブ屋さんができたとか、そんなことが事件になる。
お店を終えて、シェアハウスに帰ると、住民の誰かが「今日はどうだった?」といつも聞いてくれる。昨日と一緒のように思えるけれど、振り返ってみると、やはり何かしら話したい出来事がある。いつも来る学生さんがご両親を連れて食堂にきてくれたこと、帰国していた留学生の子が元気に帰ってきたこと、常連さんのご家族が亡くなったこと、どんなに昨日と同じような日でも、誰かにとっては忘れられない一日であり、すべての人にとっても、たった一度きりの今日という日だったのだということを知らされる。
長く入院生活を続けている友人から手紙が届いた。その手紙は、やっとのことで読めるほどの小さな字で埋め尽くされていた。とても寂しい、悲しい、ずっと教会に行くことができなくて、聖書を読むのを導いてくれる人がそばにいないこと、一人で聖書と向き合うことに限界を感じているということが書かれていた。
私は一ヵ月分の週報とこれまで書いた『世の光』のエッセイのコピーを彼女の病院に送った。彼女はとても喜んでくれて、すぐにお礼の電話とメールを送ってくれた。
しばらくして再び電話がかかってきた。彼女は今にも消えてしまいそうなか細い声で、先日送った週報とエッセイがすべて没収されてしまってもう読むことができないと言った。なんで没収されたのと聞いたら、看護師さんに「殴ってやろうか」と言ったことが問題となり、私物没収となってしまったという。電話での弱々しい声と言い放ったセリフとのギャップがちょっと面白くて、不謹慎だけどつい吹き出してしまった。すると彼女も「フッ…」と笑った。そして彼女は退院したら一緒にパフェを食べにいきたい、牧師とはラーメンを食べに行きたい、と言って電話を切った。
精神科医の中井久夫先生は、錯乱して居ても立っても居られない患者さんに相対するとき、「きみは、いまとてもそう思えないだろうけれども、ほんとうは大丈夫なんだよ」と何度も小声でささやいたという(※)。それはただの気休めではないと思う。ユーモアとはもうひとつのまなざしのことだとどこかで聞いた。ある人には絶望でしかない出来事も、それを別の視点から見るときに、私たちは笑うことができる。私たちから見れば、もう手立てがない、どうしようもない、全然笑えないという状況でも、ふと思いがけずにゆるみ、何かが差し込んでくるときがある。
今日も窓の外では夕陽が沈む。すべての人のかなしみを引き受けるように、天と地がひとつとなっていくように地平の彼方に夕陽が沈む。そして私たちは、新しい明日を待ち望む。
※『こんなとき私はどうしてきたか』中井久夫、医学書院、2007。