1日(土)エズラ記8章22節
バビロンからエルサレムに帰還する道中、エズラの心の中にあったのは徹底的な神への信頼でした。彼は王に歩兵や騎兵などの護衛を求めることはせず、神の守りを祈ったのです。「…神を尋ね求める者には、恵み溢れるその御手が差し伸べられ…」。私たちも、歩みを守ってくださる神に信頼してまいりましょう。
伊都(いと)教会と下川(しもかわ)義明主任牧師(福岡・福岡市西区)
2日(日)エズラ記9章15節
異民族との結婚を忌み嫌う、民族主義的な思想が明らかです。果たして神は「純血」を求めるのでしょうか。いいえ、そうではありません。神はモアブの女姓ルツを用いてイスラエルを導かれています。「イスラエルの神、主よ、あなたは恵み深いお方です」。私たちはただ神が恵みの神であり、すべての民族の神だと告白するのみです。
姪浜(めいのはま)教会と鈴木牧人(まきと)牧師、伊藤光雄協力牧師(福岡・福岡市西区)
3日(月)エズラ記10章11節
異民族という理由だけで簡単に離縁が許される背景には、異民族と女性への蔑視があります。果たして神はこれを正義として認めるのでしょうか。イエスは言います。「…不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にするものは、姦通の罪を犯すことになる」(マタ19・9)。大切なことは、人の属性ではなく個人を見ることです。
かたえ教会と水野英尚(ひでたか)牧師、三上梓(あずさ)協働牧師(福岡・福岡市城南区)
4日(火)ネヘミヤ記1章4節
ペルシア王の献酌官であるネヘミヤは、人づてに聞いたエルサレムのことを、自分事として神に祈り始めます。彼は新しい歩みを始めるに当たり、罪を悔い改め、神に憐れみを乞い、モーセとの契約を思い起こすよう求めています。新しい歩みは、一つの出会いを自分事として受け止め、祈ることから始まるのです。
福岡ベタニヤ村教会と田口昭典牧師、G・W・バークレー協力牧師(福岡・福岡市早良区)
5日(水)ネヘミヤ記2章2節
王と王妃がネヘミヤに好意的だったのは、信頼を得ていたからでしょう。それはネヘミヤが王や王妃に対して誠実であったからに他なりません。「正しいことを語る唇を王は喜び迎え/正直に語る人を愛する」(箴16・13)。「王の前でうぬぼれるな。身分の高い人々の場に立とうとするな」(箴25・6)。
福岡西部教会と麦野達一(たついち)牧師(福岡・糸島市)
6日(木)ネヘミヤ記3章5節
エルサレム城壁修復のために、仲間の祭司たちをはじめ、地域の住民が協力していますが、貴族たちは作業に従事しなかったようです。また敵対者はユダの人びとをあざ笑っています。働きを阻はばむ力はいつでも存在します。しかし、心を留めるべきは、その他の協力者を与えてくださる主の導きです。
西福岡のぞみ教会と亀井良雄牧師、永山辰原(ながやまときはら)協力牧師(福岡・糸島市)
7日(金)ネヘミヤ記4章17節
城壁再建を阻む人びとに対して、ユダの人びとは投げ槍を手にしながら修復作業を行ないました。とても緊迫した状況ですが、断絶に至る前に関係を修復できなかったのかと思わずにはおれません。「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタ5・39bc)。イエスの言葉を黙想しましょう。
福岡城西教会と宮井武憲牧師、寺園喜基協力牧師、安藤榮雄(ひでお)名誉牧師(福岡・福岡市城南区)
8日(土)ネヘミヤ記5章9節
ネヘミヤは、貧しさにあえぐ同胞であるユダの人びとから抵当を取り、更に苦しい状況に追い込んでいる貴族や役人を告発します。彼らは訴えに何も申し開きをすることができず、負債を帳消しにすることを約束しました。批判の言葉は耳に痛いですが、しっかりと向き合う時、悔い改めへ導かれ、新しい生き方がはじまります。
西南学院教会と西脇慎一牧師(福岡・福岡市早良区)
9日(日)ネヘミヤ記6章8~9節
偽情報が人心を惑わし、特定の個人を攻撃したりすることは現代社会でも起きています。自らが攻められた時、私たちはどう対応できるでしょうか。それは感情的にならず、神の真理に立つことです。その時、神の助けが起きるのです。パウロは言います。「悪に負けることなく、善を持って悪に勝ちなさい」(ロマ12・21)。
鳥飼教会と三田(みた)照雄牧師(福岡・福岡市中央区)
10日(月)ネヘミヤ記7章2節
城壁が再建されたエルサレムの行政を任されたのは、ハナニとハナンヤでした。ハナンヤは誠実で、誰よりも神を畏れる人物であったそうです。神を畏れるとは、悪を憎むこと(箴8・13)であり、神のみ心にまっすぐ従うこと(箴14・2)です。権力欲、名誉欲に捕らわれず、神の愛に生かされましょう。
福岡教会と小川宏嗣(ひろつぐ)牧師(福岡・福岡市中央区)
11日(火)ネヘミヤ記8章10節
「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(10f)。私たちの礼拝の原点は、聖書の朗読と、意味の説明(解き明かし)です。モーセの律法の背景は、エジプトから人びとを導き出された神の自由と解放への物語です。私たちの礼拝は、神の自由と解放の福音が語られているでしょうか。共に主を喜びましょう。
那珂川教会と藤寿(とうひさし)牧師(福岡・那珂川市)
12日(水)ネヘミヤ記9章30~31節
イスラエルの人びとは、新しい歩みを始めるに先立ち、先祖たちのこれまでの歩みを振り返り、荒布をまとって断食をし、自分たちの罪過と先祖の罪悪を告白しました。私たちも神の恵みに生かされているのに、それに感謝もせず神から離れることがあります。憐れみ深い神の赦しと守りを祈り求め、悔い改めつつ歩んでいきましょう
博多教会と髙井博章代務者(福岡・福岡市博多区)
13日(木)ネヘミヤ記10章31節
ユダの人びとは、エルサレムに住むに当たりイスラエルの過去を悔い改め、律法に基づく新しい生活を始めることを誓約します。「この地の民との関係の断絶」を繰り返しているのは、異教に陥り神を忘れることを防ぐためですが、律法順守は行為義認と罪を生んでしまいます。神の愛こそが福音です。これに心を留めることが大切です。
香住ヶ丘教会と堀内明牧師(3/31辞任)、藤井健児名誉牧師(福岡・福岡市東区)
14日(金)ネヘミヤ記11章1~2節
民の長と十人に一人の民は、くじによってエルサレムに住むことを許されました。くじは神のみ旨を示すものですから、人びとはたとえ自分が住まうことができなくても、住むことを赦された人びとを祝福しています。自分中心にならず、神のみ心の実現を共に喜ぶことが大切ということを感じます。
東福岡教会と笠井元(はじめ)牧師(福岡・福岡市東区)
15日(土)ネヘミヤ記12章27節
城壁奉献のために、人びとは礼拝を行い、共に喜び祝っています。神の守りと恵みを感じたからでしょう。一方で、城壁の存在はユダと異民族との境界となり、神の民と異邦人を区別するきっかけにもなりました。イエスは言います。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」(ヨハ10・16ab)。
西戸崎(さいとざき)教会と城俊幸(たちとしゆき)牧師(福岡・福岡市東区)
16日(日)ネヘミヤ記13章1~3節
ネヘミヤの改革がユダの人びとにもたらしたものは、果たして本当に神のみ心を為すためのものであったのでしょうか。それとも、モーセの書に書かれていることをそのまま厳格に適応することだったのでしょうか。イエスは問います。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」(ルカ10・26)。
古賀教会と泉清隆牧師(福岡・古賀市)
17日(月)エステル記1章17~18節
酒に酔ったペルシア王が、王妃を列席者に見せようと召し出すことを、王妃は拒絶しました。大臣はこれを見て「妻が夫を軽蔑の目で見るようになるかもしれない」と危惧したことで、王妃は排斥されました。問題は、誰も王妃の気持ちに寄り添おうとしていないことです。人は自分の行いの振り返りと他者への寄り添いの気持ちが必要です。
自由ヶ丘教会と宗広(むねひろ)一美牧師(福岡・宗像[むなかた]市)
18日(火)エステル記2章17 ~18 節
新しい王妃選びには「美しさ」が求められましたが、その前提条件には王に従順であることがあったように思います。王宮に連れてこられたエステルの自分の思いはどうだったのでしょうか。王妃に選ばれた時でさえエステルは自分の思いを言葉にしていません。無言のエステルの思いは神に向かっていたのかもしれません。
福間教会と近藤浩久牧師、宮﨑信義協力牧師(福岡・福津市)
19日(水)エステル記3章5~6節
同僚の大臣よりも高い地位についたハマンは、傲慢になり、敬礼しないモルデカイに腹を立てています。そして政治を自分の私憤を晴らすために行うようになるのです。国や国民のために行われない政治は、人の命を軽んじるようになります。神の国の実現を祈り求めてまいりましょう。
臼杵(うすき)教会と松永正俊協力牧師(大分・臼杵市)
20日(木)エステル記4章14~16節
「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」(14b)。モルデカイに決死の覚悟を促されたエステルは、町に住むすべてのユダヤ人に自分のために三日三晩断食し、飲食を断って祈ることを求めています。自分だけでは踏み出せないことも、周りの人びとの祈りに支えられることで進めていくことができるのです。
別府国際教会と酒井朋宏牧師(大分・別府市)
21日(金)エステル記5章7~8節
金の笏(しゃく)を差し伸べられたエステルは、その場でハマンの罪を告発するのではなく、翌日の酒宴で願いを伝えると言います。宴に招かれたハマンは有頂天になりますが、モルデカイを見て怒りを覚え、殺害を決心します。しかしその計画は挫折に終わるのです。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」(箴19・21)。
大分教会と村田悦(えつ)牧師(大分・大分市)
22日(土)エステル記6章1~3節
「王が栄誉を与えることを望む者には、何をすればよいのだろうか」(6)と問われたハマンは、自分のことと勘違いして舞い上がりますが、その栄誉はモルデカイのものとなりました。モルデカイは王の感謝がないことを妬ねたまず、いら立たず自分のすべきことに誠実であったからです。神は私たちの歩みをしっかりと心に留めておられるのです。
豊前(ぶぜん)教会と本山大輔牧師(3/31辞任)、高橋周也(ひろや)牧師(4/1就任、福岡・豊前市)
23日(日)エステル記7章3~4節
自分の寵臣(ちょうしん)ハマンを告発する王妃エステルの言葉を、王は直ちに信じています。これはエステルの言葉が真実であること以外に、王と王妃の間柄に誠実な信頼関係があったからでしょう。ハマンとは対照的に、エステルは私欲を満たすことではなく、人びとの命の守りを求めました。これが、神が私たちに望んでおられることです。
苅田(かんだ)教会と佐藤清一(せいいち)牧師、児玉尚文(なおふみ)教会主事(福岡・京都郡苅田町)
24日(月)エステル記8章7~8節
エステルはハマンを失脚させるだけではなく、執行されそうになっていたユダヤ人に対する勅書(ちょくしょ)を無効にするよう、王に憐れみを乞います。王はすぐにその願いを聞き届け、命令を取り消します。王もハマンに騙されていたように見えますが、この混乱の原因の一端はハマンを増長させた王にあります。ただ神のみ心を求めることが大切です。
飯塚教会と高屋澄夫牧師(福岡・飯塚市)
25日(火)エステル記9章1~2節
プリムの祭りはユダヤ人が殺害から守られた記念ですが、その仇きゅう敵てきを成敗する日ともなりました。神の正義はユダヤ人の敵を抹殺することなのでしょうか。いいえ、神の正義は愛であり、人の罪を贖うことです。神はすべての人を愛し創造された神です。すべての人びとが的外れの罪から立ち返り、神の国が実現することを祈りましょう。
直方(のおがた)教会と田中伊策(いさく)牧師(福岡・直方市)
26日(水)エステル記10章
エステル記において、わたしたちが心に留めたいのは、神が異邦人クセルクセス王を用いてユダヤの民に平和を与えられたことです。モルデカイの誠実さが王へのクーデターを防ぎ、エステルの嘆願が陰謀に満ちた虐殺を食い止めたのです。民族を問わず、すべての人の命が守られることを祈念しましょう。
中間教会(福岡・中間市)
27日(木)ヨブ記1章9~10節
「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではないですか」(9b~10a)。サタンの言葉は、私たちの心を明らかにします。神の祝福をどう考えているかということです。果たして神の祝福は繁栄なのでしょうか。実はすべてを失った時にこそ、神との向かい合いが始まるのです。
インドネシア伝道と野口日宇満・野口佳奈各宣教師のために
28日(金)ヨブ記2章9節
「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」。ヨブの妻の言葉は、苦しみに遭った時の私たちの心情を明らかにしています。「何故、神がいるのにこんな苦しみを受けるのか」と思います。祈りの言葉さえでないことがあります。しかし、そんな時でも神の目は、私たちにしっかりと向けられていることを覚えたいのです。
国際ミッション・ボランティアの働きのために(佐々木和之氏・ルワンダ)
29日(土)ヨブ記3章1~4節
ヨブが自分の生まれた日を呪った言葉は、失意のどん底にある者の言葉を代弁しています。「生まれなかった方が良かった」とさえ言っている言葉の背後にはどれだけのしんどさがあるでしょうか。この言葉を聞き続ける友人たちもつらいものです。しかし、このつらさを神に向けることから神との対話が始まるのです。
シンガポール国際日本語教会(IJCS)のために
30日(日)ヨブ記4章7節
「考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ/正しい人が絶たれたことがあるかどうか」。エリファズの言葉は、ヨブに寄り添うように見えて、ヨブ自身の責任を問いかける絶望的な言葉です。神の恵みは安易な因果応報論に基づくものではなく、困難のただ中にある時にも神が共におられることなのです。
アガペホーム(カンボジア)のために
31日(月)ヨブ記5章17~18節
「見よ、幸いなのは/神の懲らしめを受ける人。全能者の戒めを拒んではならない」(17)。エリファズの言葉は他人事だからこそ言え、苦しみの渦中にある時は容易に受け入れることができない言葉です。パウロは言います。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ロマ12・15)。これが隣人として私たちにできる最善のことなのです。
イドナ村女性協同組合(イスラエル・パレスチナ)のために