ヨブ記6章~35章
太田教会(群馬) 杉山 望(すぎやま・のぞむ)
1日(火)ヨブ記6章14節
「友への慈いつくしみを拒こばむ者は/全能者への畏おそれを捨てている」(協会共同訳)。日本にも、世界の国々にも、力ある者たちから見捨てられた人びとがいます。その人びとの苦悩を聞き、友として歩もうとする姿勢を持たないならば、いかに崇すう高こうな神学を述べようとも、教会は神への畏れを捨ててしまっていることになります。
芦屋教会と尹正鉉(ユンジョンヒョン)牧師(福岡・遠賀郡芦屋町)
2日(水)ヨブ記7章11節
奈落(ならく)の底に落とされた人びとは、口を閉ざすことはできず、苦悩を語り、悩み嘆(なげ)き続けます。その叫びは、既(すで)に平安を得ていたり、力や富を持っていたりする人にとっては不愉快なものに聞こえるかもしれません。しかし神はその叫びを聞いておられ、その叫びがこの世でも聞かれることを求めています。
折尾教会と今里豪(いまさとつよし)教会主事(福岡・北九州市八幡西区)
3日(木)ヨブ記8章4~7節
ヨブの友人たちが信じている応報理論は、格差や不正義を生み出す社会構造から目を逸(そ)らさせてくれるので、この世で力や富を持っている人びとにとっては便利なものです。しかし、社会の下層に追いやられ、直接的・間接的に搾取(さくしゅ)されてきた人びとには劣等感を植え付け、希望を奪うものとなります。
枝光教会と岩崎一宏牧師(福岡・北九州市八幡東区)
4日(金)ヨブ記9章22~24節
苦しみを負わされたヨブは応報理論の信仰を拒絶しますが、それだけでは世界は無秩序で混沌(こんとん)としたものに思えてしまいます。この後、ヨブは神が語られる言葉を聞き、神は全く自由であり、神の愛と恵みは人の行為とは関係なく、無償で与えられること、また神は苦しむ人びとの友となられることを知ります。
東八幡教会と奥田知志(ともし)・石橋誠一(せいいち)各牧師、藤田英彦・森松長生(ながお)各協働牧師(福岡・北九州市八幡東区)
5日(土)ヨブ記10章6~8節
人を形づくり、命を与えてくださったのは神です。その神は人のすべてをご存じだからこそ、この世で負わされた苦難が人の犯(おか)した罪とは釣り合わないこと、応報理論では説明ができないこともご存じなのです。それゆえヨブは、神が自分の真実を知っているという希望をもって、神に呼びかけ続けます。
八幡教会と久保田理(さとる)牧師(福岡・北九州市八幡西区)
6日(日)ヨブ記11章13~20節
応報理論に基づく信仰は、一見すると神の戒(いまし)めを忠実に守ろうとするものに見えます。しかし、正しい行いをすれば見返りがあると期待することは、神に従う生き方ではなく、むしろ利己的な姿勢を作ってしまいます。「利益もないのに神を敬(うやま)う」(1・9b)ことが応報理論の対極にある信仰です。
高須教会と三上渡(わたる)牧師、山田雄次協力牧師(福岡・北九州市若松区)
7日(月)ヨブ記12章4~6節
現在も格差が拡大し続けており、多くの財産を持った一握りの人びとが世界を支配し、他の多くの人びとから搾取し続けています。そのような不正義は神を怒らせるものですが、「略奪者」の富と権力は揺らぐことなく、ますます強化されているように見えます。ヨブは現実に起こっている不正義を訴えます。
若松教会と永町友恵(ともえ)牧師(福岡・北九州市若松区)
8日(火)ヨブ記13章4~6節
ヨブのように奪われ見捨てられた人びとの、苦悩の叫びを聞こうとしない友人たちの信仰は「役に立たない医者」のように価値のないものです。奪われ、見捨てられた人の友となる神を宣べ伝える教会は、不正義に苦しむ人びとの叫びを聞き、その人びとの隣人になろうとすることで、神を証しします。
北九州教会と斎藤信一郎牧師(福岡・北九州市戸畑区)
9日(水)ヨブ記14章7~10節
苦しいのは自分のせいだと決めつけられ責められるヨブには、希望が見えず、ただ痛みを耐え忍ぶしかありません。ヨブは死で終わらない希望、苦難の中でも抱くことのできる希望を求めます。それは切られても芽吹き、塵(ちり)に返っても若枝を張る木のように、死から復活し、苦難から解き放たれる希望です。
小倉春ヶ丘教会と千葉仁志(ひとし)牧師(福岡・北九州市小倉南区)
10日(木)ヨブ記15章20~29節
侵略や略奪は過去のものではなく、現在でも繰り返されている現実です。最新の強力な兵器を持った国が女性も子どもも殺戮し、食物を奪い、街を瓦礫(がれき)の山に変えています。国際法を繰り返し踏みにじり、世界中からの抗議の声も無視して繰り返されるこの暴力も、応報理論を用いれば正当化されてしまいます。
企救(きく)教会と原田義也牧師(福岡・北九州市小倉南区)
11日(金)ヨブ記16章18~22節
友人たちがヨブの苦悩は自業自得であると責め立てても、神はヨブの友となり、彼を弁護します。「苦難に遭う貧しい者の砦」であり、「すべての顔から涙をぬぐい」とってくださる神(イザヤ25・4、8)は、苦しむ者の友となり、この世で見捨てられた人の隣に立って弁護してくださるのです。
シオン山教会と加藤英治牧師(4/1就任、福岡・北九州市小倉北区)
12日(土)ヨブ記17章1~4節
不当な苦しみによって息絶えるほどに追い込まれたとき、その苦しみが理解されず、周りの人びとからあざけられ、敵意さえ向けられたならば、どれほど孤独を感じ、闇に捕らわれたように思うでしょうか。光の見えない闇の中で、私たちの味方となってくださる方が、神の他にいるでしょうか。
南小倉教会と谷本仰(あおぐ)牧師(福岡・北九州市小倉北区)
13日(日)ヨブ記18章5~7節
ビルダドは、神に背き、不正を行う者は滅びると確信しており、その信仰に基(もと)づいてヨブに悔い改めを迫ります。しかしその信仰は、不当な苦しみを負わされている人にとっては何の救いにもなりません。不正義がまかり通る世界に慣れてしまったならば、苦しむ人の友となる神のみ心を知ることはできません。
小倉教会とチャトゥルヴェディ由起子代表役員代務者(福岡・北九州市小倉北区)
14日(月)ヨブ記19章25~27節
ヘブライ語の「贖(あがな)う」(ゴーエール)の動詞形には、「解放する、買い戻す」などの意味があります。それは誰かが財産を失ったり、生命の危機に晒(さら)されたりした場合に、家族や親類縁者が助ける義務を実行することです。私たちを贖う神は、何の助けもないようなときに、私たちの家族となってくださいます。
富野教会と黄仁坤(ファンインゴン)牧師、福田昌治(しょうじ)協力牧師(福岡・北九州市小倉北区)
15日(火)ヨブ記20章17~19節
聖書では、貧しい人びとを虐げ見捨てて財産を増やすことは重大な罪であると断じています。しかしキリスト教が多数を占める国ぐにも、武力や経済力によって搾取と抑圧を行い続けてきました。繁栄が続いているからといって、このような暴力を悔い改めないことが神に赦されているわけではありません。
門司港教会と石橋貞男代表役員代務者(福岡・北九州市門司区)
16日(水)ヨブ記21章17~19節
神の正義と公正を求めず、搾取と抑圧によって力を得たとき、人は神の戒めを余計なものと感じ、神から離れ、神の道を忘れることを望み始めます。「神に仕えることで私たちにどんな利益があるのか」と問う応報理論の考え方は、「利益もないのに神を敬う」(1・9b)という聖書の信仰とは異なります。
門司教会と桐原恩恵(めぐみ)協力牧師、森裕貴(ひろたか)教会主事(福岡・北九州市門司区)
17日(木)ヨブ記22章5~10節
エリファズは、ヨブが貧しい人びとを助けなかったことが彼の苦難の原因だと考えました。神を畏れ敬い、神に仕えるならば、その信仰には愛と正義の実践が伴ともなうからです。しかし、ヨブが苦難を負わされたのは隣人への愛を怠(おこ)たったからだ、という彼の応報理論は、何の根拠もない憶測でしかありませんでした。
下関教会と泉選也(えりや)牧師(山口・下関市)
18日(金)ヨブ記23章6~7節
ヨブは友人たちとの議論を通して、裁きを恐れながらも、神に訴えたい、という思いを強くしていきます。なぜなら彼は、神の義が神の無償の愛との関連において理解されるものだ、ということに気づいたからです。神は正義を求めますが、それ以上に人を生かす方であり、人を心に留めてくださる方です。
小野田教会と佐野太(ふとし)牧師(山口・山陽小野田市)
19日(土)ヨブ記24章1~12節
ヨブが語る惨状(さんじょう)は自然に生じたものではなく、搾取と抑圧を行う者がいなければ生じない苦難でした。共同体が解体されたり、グローバル化が進んだりしたことで見えにくくなりましたが、このような惨状は現在でも繰り返されています。人びとの呻(うめ)きと叫びを、私たちは、神と共に心に留めなければなりません。
防府教会と山時松江牧師(山口・防府市)
20日(日)ヨブ記25章4節
ヨブが訴えた現実の惨状に対して、ビルダドは一般論として「人は皆罪人である」としか反論できませんでした。それほどに彼の目には現実の不正義が見えていなかったからです。不正義に鈍感になった人びとの語る「平和」は、社会構造の中の暴力を温存させ、搾取する人びとを安心させる偽りの平和です。
八幡浜教会と梶井義郎(よしろう)牧師(愛媛・八幡浜市)
21日(月)ヨブ記26章2~4節
天地を創造された神のみ業ははかり知れず、人にはほんのわずかなことしか知りえません。それでも、力のない者を助けることが神の義を少しでも知ろうとすることにつながります。ヨブは力のない者を助けてきたし、自らも貧しさに打ちひしがれていますが、友人たちにはそのような経験がありませんでした。
松山西教会と嶋田健治牧師(愛媛・松山市)
22日(火)ヨブ記27章6~7節
苦難に遭うのは自業自得だと何度責められても、ヨブは自身の潔白を主張し続けました。それは自分の苦しみが不当なものであるという確信があったからだけでなく、不当な苦しみを負わされた人びとを助け、不正義に立ち向かってきたからであり、神は正義を遂行(すいこう)してくださると信じていたからです。
道後教会と宮本恵(めぐみ)牧師(愛媛・松山市)
23日(水)ヨブ記28章28節
知恵を持つということは神を畏れることであり、悪から離れて神の教えに従って生きることです。現代は科学万能主義が広まり、人が地球を支配することができるし、支配すべきだという価値観に染まっています。その結果として引き起こされているのは、人も含めた被造物の命の軽視と地球環境の破壊です。
松山教会と川上敏夫牧師(愛媛・松山市)
24日(木)ヨブ記29章14~17節
無垢な正しい人とは、貧しい人に手を差し伸べるとともに、その人を抑圧し搾取する不正な者に対して抵抗する人のことです。神は苦難を負わされた人を罪人として責めるのではなく、むしろその人の友となる方です。神の前で真っ先に罪を問われるのは、不正義・不公正を行う力ある者たちです。
今治教会と今井謙一・今井朋恵各牧師(愛媛・今治市)
25日(金)ヨブ記30章24~28節
ヨブは嘆き求める人に手を差し伸べてきました。しかし不正義は取り除かれず、今や自分の身にも苦難が襲い掛かっています。「光を待っていたのに、闇が来た」とヨブは神に不満を訴えます。もちろん神は正義が行われることを求めています。けれども貧しい人に災いをもたらす者たちは今も絶えません。
徳山伝道所と今井朋恵・今井謙一各協力牧師
26日(土)ヨブ記31章16~23節
ヨブは搾取され、抑圧された人びとと連帯し、そこからの解放がもたらされるように歩んできました。本来、人はそのように連帯して共に生きる者でしたが、富を無限に蓄積しようとする今の社会では、人と人との連帯は断ち切られ、人からも自然からも一方的に搾取することがまかり通っています。
インドネシア伝道と野口日宇満・野口佳奈各宣教師のために
27日(日)ヨブ記32章15~18節
エリフは年長者の議論の結果に不満を抱き、いよいよ語り出します。彼は自分が霊感を受け、正しく語ることができると思っていますが、彼の言葉は冷たく、素っ気ないものです。それは彼がヨブの苦難に関心を持っておらず、神の考えを求めることもなく、自分の信じたことを主張するだけだからです。
国際ミッション・ボランティアの働きのために(佐々木和之氏・ルワンダ)
28日(月)ヨブ記33章19~20節
エリフは、苦難は人の罪に対する神の罰とは限らないが、教育的な目的で与えられることもあるという考えを述べます。確かに私たちは苦難を通して何かに気づかされることもあります。けれども、不正な搾取と抑圧によって引き起こされた苦難を、教育や試練として正当化するべきではありません。
シンガポール国際日本語教会(IJCS)のために
29日(火)ヨブ記34章24~30節
神の正義は、搾取や抑圧を行う力ある者たちをひいきすることはなく、むしろ助けを必要とする人びとに特別に目を向けられるものだ、とエリフは説明します。確かに神はそのようなお方ですが、力ある者たちへの罰も、奪われた人びとへの助けも、理論通りにはならない現実への説明は、まだ足りていません。
アジアバプテスト女性連合(ABWU)のために
30日(水)ヨブ記35章5~8節
神は天の高いところにおられるので、神は人間の善にも悪にも影響されないのだ、とエリフは語ります。彼にとって、神は遠くから人の行いに目を光らせる存在でした。しかし神は人の姿をとって地上に降り、私たちと共におられる方、苦難を共に担い、神の国と神の義をもたらしてくださる方です。
ウムチョ・ニャンザ(ルワンダ)のために