祈りのきずな

祈りのきずな 2025年5月号

執筆者
萩原 永子
所属教会
洋光台教会

ヨブ記36章~詩編24編

洋光台教会(神奈川) 牧師 萩原 永子(はぎわら・のりこ)

1日(木)ヨブ記36章15~16節

受け止めることもできず、理由すら分からない現状に苦しむヨブに、友人エリフはエリフなりに寄り添おうとします。ヨブのことを大切に思う神について懸命に語るエリフの言葉は、ヨブの心に響いたのでしょうか。受け止めがたい出来事に翻弄(ほんろう)されて痛む時、私たちはこの言葉をどう聞くでしょう。
高知伊勢崎教会と河野宏一(かわのこういち)牧師(高知・高知市)

2日(金)ヨブ記37章21~22節

エリフは、神が人間の知識や想像をはるかに超えた方で、恵みに満ちて世界を治める方であることを示そうとします。しかし、暗闇のような現実に痛むヨブは沈黙したままです。沈黙するヨブは、何を想うのでしょう。人は自分の努力では、雲のかなたで輝く光を見
出せません。雲を払う神の諭(さと)しがない限り。
徳島教会と杉山いずみ牧師、杉山修一協力牧師(徳島・徳島市)

3日(土)ヨブ記38章41節

ついに主なる神がヨブに答えました。しかし、ヨブの問い自体の答えではなく、ヨブに問いかけるものです。天地を創り、治める神は「烏を養ってくださる」(ルカ12・ 24c)神です。ヨブの想像を超えたことを成す神は、ヨブに向き合い、関わり続ける方として語りかけます。同じように私たちにも。
丸亀城東町教会と山浦良治(よしはる)牧師代行(香川・丸亀市)

4日(日)ヨブ記39章13~18節

自由に生きる野生の動物にも、神は目を留めて慈しんでいます。知恵と分別を与えられなかったかに見える駝鳥(だちょう)にも神は目を留め、駿馬(しゅんめ)すら追い越す程の走る力を与えました。山羊には山羊の、ろばにはろばの、駝鳥には駝鳥の持ち味を与える神は、私たち1人ひとりにも持ち味を与え、慈しんでおられます。
恵教会と伊藤聰(さとし)牧師(香川・高松市)

5日(月)ヨブ記40章1~8節

ヨブは、神を責め立てる言葉を長々と口にしてしまったことを悔やみ、へりくだって口を閉ざそうとします。しかし、一見解決したかのように見えるヨブの痛みが、根っこではまだ何一つ解決していないと知っている神は、ヨブをそのままにしておきません。神はより深い対話へとヨブを招いています。
高松太田教会と吉田睿濫(イエラム)牧師(香川・高松市)

6日(火)ヨブ記41章4節

40章から登場したレビヤタンは、人間にとって知り尽くせない不思議な生物です。しかし神はその外側も内側もご存知です。その神は私たちの心の混沌(こんとん)も言葉にならない呻(うめ)きも知っています。周囲の人が私たちを誤解する時も、私たちが自身を把握できない時も、神は私たちを深く知り、見つめておられます。
高松常磐町教会(香川・高松市)

7日(水)ヨブ記42章5節

信仰深いヨブが、神のことを「耳にして」いた程度だったと告白します。「しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」(5節b)。私たちが神を何度見失おうとも、神が私たちに耳を傾け、言葉と呻きを聞いてくださっている以上、私たちは何度でも神を知り、神に出会い、神を仰ぎ見ることができるのです。
江波教会と杉本拓哉牧師(広島・広島市中区)

8日(木)詩編1編1~3節

1編は「神に従えば、すぐに繁栄する」とは詠(うた)いません。「ときが巡り来る」まで冬をじっと耐える枯れ木のように、ただ立ちつくすしかない時を過ごすこともあるでしょう。その私たちに、1編は「み言葉」を思い巡らし、祈る道へと私たちを招きます。いつか緑生い茂り、実を結ぶ日が来ると指し示しながら。
広島教会と播磨(はりま)聡牧師、髙橋秀二郎(ひでじろう)協力牧師(広島・広島市中区)

9日(金)詩編2編1~2、12節

誰かが「王」のように私たちを支配し、圧迫し、それによって私たちがどれだけ恐れに囚われて動揺しても、主は動じることがなく、傷ついた私たちを支えておられます。この世界を本当に治めている主なる神こそが、私たちの「避けどころ」です。2編が詠うように、主にこそ寄り頼みたいものです。
呉教会と浅海郁典(あさうみいくのり)牧師(広島・呉市)

10日(土)詩編3編4~7節

つらく、苦しいことが目の前にあると、私たちの心は揺れて眠れない夜を過ごす時があります。神の救いや助けは、今度ばかりは無いかのように思い、信仰が揺さぶられる場合もあるでしょう。そんな「どん底」にある私たちの魂の最も深いところを、主は支えておられます。主こそが私たちの盾です。
緑の牧場教会と林守鎮(イムスジン)牧師(広島・東広島市)

11日(日)詩編4編7~9節

美味しい食べ物を前にすると、うれしくなりますか。この詩は、どれだけ飲み食いしても、どれだけ物を蓄えても、それらでは得ることのできない「それにもまさる喜び」(8節b)を主が与えてくれると詠います。誰にも奪えない喜びをくださる主のもと、一人ひとりが平和の内に安らげますように。
福山教会(広島・福山市)

12日(月)詩編5編2~4節

苦しい現実を過ごしながら、夜が明け、朝になるのを「待ってました」とばかりに祈る言葉で始まる5編。苦しい立場に置かれている時に祈ることができるのは、私たちが私たちを苦しめている人たちよりも正しいからではありません。ただただ、助けを求める叫びとつぶやきを聴く主がおられるからです。
岡山教会(岡山・岡山市北区)

13日(火)詩編6編7~8節

眠ることさえできない程に悲しい時、私たちは生きる気力さえ削がれ、身も心も衰え果てます。この暗闇の中で唯一の希望は、嘆きを聞き、祈りを受け入れてくださる主がおられることです。この確信に至るまでの道のりが、どれだけ長く、どれだけ暗いものであったとしても、主もそこに共におられます。
松江教会と斎木郷次(さいききょうじ)牧師(島根・松江市)

14日(水)詩編7編2節

身に覚えのない話で責められ、中傷されるのは、耐えがたいことです。この苦しい状況を神に訴えようと詠われた7編。今にも苦難に捕えられそうな自分を「助け」、あるいは、既に苦難に捕らえられてしまった自分を「救って」くださる主なる神だけが、私たちの避けどころ、安息を与えてくれる方です。
鳥取教会(鳥取・鳥取市)

15日(木)詩編8編4~9節

自然界の中で、人間はどこまでも弱く、やがては塵(ちり)にかえる小さな存在です。しかし、神はその私たち一人ひとりを捜し、見出し、愛し抜く方です。この世界を創られた方は、私たちをも創り、今なお、心にかけて見つめておられます。神の慈しみのみ手の中、一人ひとりが伸びやかに歩めますように。
姫路城西教会(兵庫・姫路市)

16日(金)詩編9編8~13節

世界の不条理で不公平を目の当たりにする時、尋ね求める人を見捨てず、貧しい人の叫びをお忘れになることはない主だけが、私たちの拠りどころです。それでも私たちは目の当たりにしたものに痛まずにはいられません。主よ、世界を正しく治めるあなたの「驚くべき御業」(2節)を私たちに見させてください。
明石教会と椿本博久牧師(兵庫・明石市)

17日(土)詩編10編1~2、12~14節

神が「遠く離れて」(1節)いると感じ、神の沈黙と不在に痛みながらも尚、その神に祈り呼びかける10編。詩人は祈りの中で「御覧になり」「顧(かえり)みてくださる」神に気づいていきます。気づく過程にある心の痛みと揺らぎも、神はご存知です。人が神を見失っても、神は私たちを見失うことがないからです。
神戸伊川教会と鮫島泰子牧師(兵庫・神戸市西区)

18日(日)詩編11編1~3節

世の秩序が私たちを支えることがあります。しかし、それすら何かあれば覆(くつがえ)ってしまうものです。その現実に足元から崩れ落ちる時、「避けどころ」である主こそが私たちの足元を支えています。私たちが絶望の中で顔を伏せても、主の眼差しがあるので私たちは主を見上げることができるのです。
神戸西教会(兵庫・神戸市垂水区)

19日(月)詩編12編6~8節

言葉巧(たく)みな人が、耳に心地よい言葉を述べて物事を動かす時があります。社会がどれだけその言葉に流されようとも、主の言葉だけが純粋で真実なものです。その主は「虐(しいた)げに苦しむ者と /呻いている貧しい者のために」立ち上がる方。私たちはこの方の
言葉をこそ聴き、この方に向かって祈ります。
神戸教会と井形英絵牧師(兵庫・神戸市中央区)

20日(火)詩編13編2~6節

主との関係に破れを感じ、自分の内側を見れば深く痛み、人との関係では危機しかなく、それらが「いつまで」も続くように感じるとは、苦しい道のりです。主よ、あなたの恵みを思い出し、「主は私に報いてくださった」と信じ、この先の道のりも委ねることのできる平安を、私たちに与えてください。
浜甲子園教会と森山一弘会員代表(兵庫・西宮市)

21日(水)詩編14編1~6節

「神なき世界」と言いたくなる現実の中、神を捜し求め、時にはそれを諦めそうになる私たちを、神の方は諦めることも見限ることもなく捜し出し、見出しました。誰ひとり神の前で義とされない痛ましさを抱える私たちと和解しようとする神だからこそ、私たちは安心して捜し求めることができます。
尼崎教会と長尾知明牧師(兵庫・尼崎市)

22日(木)詩編15編1~5節

どんな人が「聖なる山に住む」、つまり礼拝する者として相応しいのでしょうか。15編が挙げている条件すべてを満たせる人など一人もいません。しかし、そんな私たちの「ただ中に住まう、と主は言われる」(ゼカリヤ2・ 14b)。その主が、何かと揺らぎやすい私たちを、揺らぐことなく礼拝へと招いています。
神戸新生教会と舟橋恵子責任者(兵庫・神戸市東灘区)

23日(金)詩編16編7~11節

夜、今日の一日を振り返りながら自分の心の奥に踏み入って、苦しくなったり、「ひとり反省会」から抜け出せなくなったりする私たちの魂を、癒し、諭(さと)し、寄り添う主がおられます。死によっても奪うことのできない「命の道」へと導く神は、私たちが安眠できる夜も、眠れない夜も共にいてくださいます。
伊丹教会と内田裕二牧師(兵庫・伊丹市)

24日(土)詩編17編1~8節

人は自分の訴えが正しいと信じているからと言って、自信をもって気を強くしていられる訳ではありません。周囲に理解されず、いつも心がキリキリ痛み、ただ神に訴えるのが精一杯の時が私たちの人生にやって来るかもしれません。「瞳のように」私たちを守る神だけが、私たちの隠れ家です。
宝塚教会と南雅夫牧師(兵庫・宝塚市)

25日(日)詩編18編1~4節

「主はわたしの力」「主はわたしの岩、砦、逃れ場」。どれだけ言葉を並べても、主が私たちの唯一の神であることを言い尽くすことは出来ません。主は、私たちの紆余曲折の中で、私たちの気づきを超えて、私たちを助け、養ってくださいます。より深く主を知り、主を慕い求めることができますように。
豊中教会と今給黎眞弓(いまぎれまゆみ)牧師(大阪・豊中市)

26日(月)詩編19編8~15節

私たちは、知らない内に罪を犯す存在です。あつい信仰を持とうとして、高慢になったり自己卑下の渦にはまったりする手の付けられないモノを内に秘めています。しかし、それをものともせず私たちを養う神がおられます。主よ、私たちの魂を生き返らせる蜜より甘いみ言葉で、私たちを養ってください。
和歌山教会と調(しらべ)みくに牧師(和歌山・和歌山市)

27日(火)詩編20編8~9節

追い詰められて危機に瀕(ひん)した時、神ではないものに頼りたくなる誘惑が私たちを翻弄することがあります。何かを所有していることで安心する時、所有していないことで不安に襲われる時、主をこそ思い出し、記憶し、祈りたいものです。私たちを力づけ、立ち上がらせる心の平安は、主から来るからです。
インドネシア伝道と野口日宇満・野口佳奈各宣教師のために

28日(水)詩編21編1~8節

どんな逆境も壊すことのできない圧倒的な祝福が、私たちに注がれています。それらを注ぐ「いと高き神の慈しみ」に私たちは支えられています。他の何かが私たちに大きく迫って来て、私たちが動揺してしまう時、主から注がれている祝福を私たちが見出し、主にこそ依り頼むことができますように。
国際ミッション・ボランティアのために(佐々木和之氏・ルワンダ)

29日(木)詩編22編2~12節

「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」。そう叫ばずにはいられない程に、痛み、苦しみ、神にも、隣人にも、自分自身にも絶望するその時も、主は一緒におられます。苦難の只中で共におられる主は、私たちの弱さに同情できない方ではありません(ヘブライ4・15)。
シンガポール国際日本語教会(IJCS)のために

30日(金)詩編23編1~6節

最も厳しい時、「神」でも「主」でもなく「あなた」と呼びかけたくなる程の近さと親しさをもって、主は私たちに伴っています。主の恵みと慈しみはどこまでも追いかけてくるので、私たちはそれを避けることも払いのけることもできません。恵みは「わたし」という杯に今日も満ち溢れています。
アジアバプテスト女性連合(ABWU)のために

31日(土)詩編24編7~10節

私たちが主を尋ね求めることができるのは、主がまず私たちに関わろうと忍耐強く待っていてくださるからです。人はもちろんのこと、主にさえ開けようとしない心の堅固な城門を持つ私たちを見捨てることなく、愛をもって関わる主を、今日も、また迎える新しい月も知り、味わうことができますように。
福島移住女性支援ネットワーク(EIWAN)のために

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