心に鍬を入れられて

心に鍬を入れられて 2024年12月号

正義と平和とカトリック教会

昼間 範子(ひるま・のりこ)
日本カトリック正義と平和協議会事務局員

 

 

 

前々回触れたように正平協(せいへいきょう、日本カトリック正義と平和協議会)には「アンチ正平協」があります。そして、そうしたアンチから反応があるたびにとりわけ感じるのは、「正義」という言葉へのモヤモヤした反発心の存在です。時には、もっとはっきりと「正義なんて独善的だ」という声を聞くこともあります。

「正義」とはなんなのでしょう。聖書には「正義」という言葉がたくさん登場し、神学的、哲学的な考察が積み重ねられてきた重要テーマであることは、言うまでもありません。カトリック教会の正義と平和の最重要テキスト『教会の社会教説要綱』(教皇庁正義と平和評議会編、2004年)には、例えば、次のように書かれています。

「平和は正義の果実です(イザヤ32・17)。この場合の正義は、広い意味で、人という存在がすべての次元において公正に尊重されることを指しています」。

正平協は、50年間、さまざまな社会の問題に直面し、プロテスタント教会の皆さんや他の宗教、市民グループと連帯しながら、自分たちが今何をすべきかを探してきました。これまでの主な取り組みをあげてみると、韓国独裁政権下の民主化闘争、日本における外国人の指紋押捺(おうなつ)拒否支援、日本軍「慰安婦」制度被害者支援、東ティモール独立支援、福島原発事故による放射性物質汚染問題、辺野古の基地建設工事反対、死刑判決を受け長期拘束された袴田巌(はかまだ・いわお)さんの支援、パレスチナのジェノサイド(大量虐殺)、そして前回触れたカトリック教会におけるジェンダーの問題などがあります。そしてこれらの取り組みが始まるのは、多くの場合、どこかで誰かが不当な目に遭い、「これは不正義だ」と言わざるを得ない事態となった時です。

とはいえ、私を含め、これらの問題に取り組んできた人たちが、必ずしも「正義」を上手に説明できたわけではないでしょう。むしろこうして「正義」が壊される時、逆説的に「正義」というものがあったことに気づき、経験からそれを理解し、なんとかして回復しなければ、という思いに駆られ、働いてきたのではないか。私は正平協の歴史をめくりながら、そう思うのです。

そもそも人間は(いや、本当は犬や猫だって)、不当な状況に耐えることなどできないし、耐える必要もないはずです。この世界で必要なのは、ともに生きていくための「正義」。神さまは世界をそのようにお造りになったのではないでしょうか。

最後に、正平協の集まりで時々話されていることをお伝えして、私の拙(つたな)い連載を閉じたいと思います。正平協は、各地に、さまざまな形態、規模で存在しています。ジェンダー、年齢、国籍などを問うことなく、誰でも参加することができ、最初はどんな小さな声でも、そこで議論をして、(カトリック)教会の「正義」の声にしていくことができます。したがってその活動は、カトリック教会のジェンダーの偏(かたよ)りを克服し、「共に歩む道」(シノドス、※)を切り拓(ひら)いていくのです。

※ 「世界代表司教会議」の名称として使われるが、原義は「共に歩む道」。
現在、カトリック教会にこの本来の意味に還ろうという動きがあります。
・正平協ホームページ:https://www.jccjp.org/

error: この記事は保護されています