カルトとは何か
齋藤 篤(さいとう・あつし)
日本基督教団仙台宮城野教会 牧師
日本基督教団カルト問題連絡会世話人
日本基督教団東北教区センターエマオ 主事
はじめに
2022年7月に起きた安倍晋三(あべ・しんぞう)元首相銃撃事件を契機に、カルト宗教という言葉が世の中を席巻(せっけん)しました。それから3年近くが経過しようとしています。私たちは「宗教」に多少なりとも触れながら生きている者として、カルトについてどのような認識を抱くことができるのでしょうか。そのことについて、ともに考えてみたいと思います。
カルトとは何か
そもそもカルトとは何でしょうか。カルトという言葉の意味と、その歴史について触れたいと思います。そもそも「カルト」という言葉が、現在のような意味で用いられるようになったのは、ここ数十年の出来事と言えます。
元来「礼拝」を意味するラテン語「クルトゥス」がカルトの語源です。今でも、イタリアやスペインのプロテスタント教会では、礼拝のことを「クルト」と言うくらいです。
では、なぜ今のような意味で、カルトという言葉が用いられるようになったのでしょうか。これは、私たちがカルトについて考えるうえで、大変重要な要素となるのですが、私たちは「誰」を崇拝し、また礼拝するのかという問いについて考えることで、カルトの現在的な意味を、より具体的なかたちでイメージし、とらえることができると言えるでしょう。
カルトの定義については、多様な言葉を用いて表現できるかと思いますが、より分かりやすい定義として、私が最近提唱しているのは「ゆがんだ支配構造」というものです。つまり、誰を崇拝し、礼拝するのかという問いと、その崇拝・礼拝行為を通して、どのような支配構造が生まれるのかということが、カルトを定義し、また、カルトについて考えることのできる、大切な要素であると言えます。
支配する側・される側における関係性が、命の犠牲を生じさせ、人間の尊厳や人権、また健全な信仰までもが奪い取られてしまうものであるならば、それが「ゆがんだ支配構造」であり、それが「カルト」であると言えるでしょう。
さて、日本において「カルト」という言葉が社会に登場するようになったのは、今から約30年前に起きた、いわゆる「オウム真理教」事件であると言えます。
それ以前も、宗教という現場で、ゆがんだ支配構造における多くの宗教トラブルはありましたが、弁護士一家殺人事件や地下鉄サリン事件などを引き起こした、オウム真理教における一連の出来事を通して、カルトという言葉が広く知られるようになりました。ひとりの教祖による絶対的な支配構造が、信者の自由な思考を停止させることで、教祖の意に反する動きが、狂暴な方法によって封殺されてしまったのです。
そして、一昨年に起きた安倍元首相銃撃事件を通して、旧統一協会をはじめとする「カルト問題」が、私たちのあいだに再燃しました。この問題を通して、宗教全般に対する厳しい世間の反応があるわけですが、だからこそ、宗教に関わる私たちが、カルトについて真剣に向き合うことが必要であると言えるでしょう。