ー善き力に囲まれてー
人となられた神、イエスさま(フィリピ2章6~8節)
鮫島 泰子(さめじま・やすこ)
神戸伊川教会[兵庫]牧師
新生讃美歌73番
2024年度の「例会プログラム」を担当させていただくに当たり、テーマをどうしようかと考えていた時、ふと新生讃美歌の一節が頭を過ぎった。「善(よ)き力に囲まれつつ/来るべき時を待とう/夜も朝もいつも神は/われらと共にいます」(※1)。そうだよね、私たちは善き力に囲まれて生きているんだよね…。でも「力」と聞くと、暴力、戦闘力、権力、破壊力、威力、兵力、支配力、圧力、勢力…、余り聞きたくないような力や怖い力しか思い浮かばない気もする。どうして「力」にマイナスのイメージを抱いだいてしまうのかな。確かにこの世には暗いニュースがあふれているし、メディアも視聴者の興味を煽(あお)ろうと意図的に情報を操作しているようにも思えるし。何かにつけ善いよりは悪い方へと気持ちが引き摺(ず)られるのはそもそも人間の性(さが)なのかもとも思うし…。でも敢えてその対角にあるもの、善き力を信じたい。善き力を見つけたい。善き力に囲まれているんだと実感したい。
ディートリヒ・ボンヘッファー
上記に引用した歌詞 (※1)は、新生讃美歌73番「善き力にわれ囲まれ」の (くりかえし)の部分である。作詞者はディートリヒ・ボンヘッファー。キリスト教界でこの名を知らないクリスチャンはまずいない超有名人である。…などと言いつつ、実はこの人物のことを私はほとんど知らない。数多(あまた)残したといわれる著作も一冊(※2)しか読んだことがない。先ずはボンヘッファーについてこの書籍の翻訳者、村椿嘉信(むらつばき・よしのぶ)氏の「あとがき」から抜粋する。
ディートリヒ・ボンヘッファーは、1906年ドイツの生まれ。ベルリン大学卒業後牧師となる。世界教会運動にも積極的に参加。第二次世界大戦勃発の後、ヒトラーに対する地下抵抗運動に参加。43年に逮捕され2年間の獄中生活の後1945年4月8日、復活祭後の第一主日礼拝の直後に連行され翌朝処刑された。
―自分に反対する者は生かしてはおかない―。独裁者のこの発想は稚拙(ちせつ)で短絡(たんらく)的としか思えない。要するに対話に耐え得ないので力にモノを言わせようとしているのだ。震え怯(おび)えているのはどちらなのかが見える気がする。
※1 日本基督教団讃美歌委員会著作物使用許諾第5698号
※2 『主のよき力に守られて ボンヘッファー1日1章』村椿嘉信訳、新教出版社、1986
歌詞と記述と
「訳者あとがき」には、本書は筆者の講演、説教、書簡などさまざまな著作からの抜粋を毎日読めるようにしたもの、とある。新生讃美歌73番の歌詞の出典と思われる記述は、「12月31日 主のよき力に守られて」として掲載されている。以下に転写する。
よき力に、確かに、静かに、取り囲まれ、
不思議にも守られ、慰められて、
私はここでの日々を君たちと共に生き、
君たちと共に新年を迎えようとしています。過ぎ去ろうとしている時は、私たちの心をなおも悩まし、
悪夢のような日々の重荷は、私たちをなおも圧し続けています。
あぁ、主よ、どうかこのおびえおののく魂に、
あなたが備えている救いを与えてください。あなたが、もし、私たちに、苦い杯を、苦汁にあふれる杯を、
なみなみとついで、差し出すなら、
私たちはそれを恐れず、感謝して、
いつくしみと愛に満ちたあなたの手から受け取りましょう。しかし、もし、あなたが、私たちにもう一度喜びを、
この世と、まぶしいばかりに輝く太陽に対する喜びを与えてくださるなら、
私たちは過ぎ去った日々のことをすべて思い起こしましょう。
私たちのこの世の生のすべては、あなたのものです。あなたがこの闇の中にもたらしたろうそくを、
どうか今こそ暖かく、明るく燃やしてください。
そしてできるなら、引き裂かれた私たちをもう一度、結び合わせてください。
あなたの光が夜の闇の中でこそ輝くことを、私たちは知っています。深い静けさが私たちを包んでいる今、この時に、
私たちに、聞かせてください。
私たちのまわりに広がる目に見えない世界のあふれるばかりの音の響きを、
あなたのすべての子供たちが高らかに歌う賛美の歌声を。よき力に、不思議にも守られて、
私たちは、来たるべきものを安らかに待ち受けます。
神は、朝に、夕に、私たちのそばにいるでしょう。
そして、私たちが迎える新しい日々にも、神は必ず、私たちと共にいるでしょう。
善き力であるイエスさま
新生讃美歌の歌詞と12月31日付の記述を読み比べながら思う。双方テーマは「時」であるが、指し示している「時」は同じではないように思う。歌詞の、善き力に囲まれて待とうと呼びかけられている「時」は、死を超えてその向こうへとなお続いていく「時」。12月31日付の記述の、過ぎ去りながらなおも心を悩ます「時」や私たちを包む深い静かな「時」は、迫り来る死に向かっていく「時」、人生が終わるまでの「時」。拡大解釈すれば、前者は「神の時」であり後者は「人の時」であると言えるように思う。人間にとっては概念が大きく異なる二つの時であるが、それを支配しておられるのは神さまであることに思いが至ってほっとする。賛美歌を歌えば、人生途上のどんな苦しみ、悲しみ、痛みも必ず報いられる時が来ると信じることができる。歳晩(さいばん、※3)の記述を読めば、死からは逃(の)がれようがなくても永遠に伴ともなってくださる慰め主の存在を確信することができる。訳者は「あとがき」において、ボンヘッファーが処刑の直前まで神にすべてを委(ゆだ)ねて祈り続けていたという収容所の医師の証言を紹介している。
※3 大晦日、12月31日のこと。
ボンヘッファーは書いている。よき力に、不思議にも守られて、私たちは、来たるべきものを安らかに待ち受けます、と。同時に死を目前にして揺れ動く心を包み隠さない。憤(いきどお)り震え、怯え慄(おのの)いて当たり前、平静でいられるはずがない。繰り返し読みながら、ゲッセマネの園にて滴(したた)る血のような汗を流して祈られるイエスさまを想像した。そして改めて強く感動した。この方は、本当に人間になってくださった、人の人生をその身に味わってくださったのだ、と。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執(こしつ)しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした (フィリピ2・6~8)。人となることを自ら望み、実際にこの世界に人として生まれて来てくださった神さまが、十字架刑が迫る中で祈られたのだ。父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください(ルカ22・42a)。これは、心から死を恐れる人間の切実な願いである。イエスさまの死は理不尽の極(きわ)みの死であった。神さまは自ら理不尽の死を死んでくださった。人となって体験してくださったのである。このことがボンヘッファーをどれほど慰め、支え、励ましたことだろうか。
現代、世界中で起こっている戦争、病(やまい)、犯罪、災害、事件、事故…。理不尽な死を受け入れなければならなかった数知れない人たちのことを思う。その霊もまた善き力に囲まれていることを信じたい。人間の最も理不尽な死を通って死に勝利してくださったイエスさまが慰めてくださるように祈り続けたい。