聖書研究

聖書研究 2025年4月号

執筆者
比企 敦子
所属
日本基督教団 紅葉坂教会

いのち・平和・人権
わたしたちは誰と共に、どこに立つのか
第1回 打ち砕かれた心(詩編34・19)

比企 敦子(ひき・あつこ、日本基督教団紅葉坂教会)

 

 

 

はじめに

 日本バプテスト連盟の教会では、「成人科」や聖書研究の場で教会員が平等な立場で自由に語りあえることを、羨ましく思っていました。わたしが所属する日本基督教団では、信徒が礼拝説教を担当する場合は「奨励」・「証し」と位置づけられます。今年度の「聖書研究」では、わたしたちをとりまく状況をまず確認した後に、聖書を読んでいきたいと思います。

冒頭に掲げた今年度のタイトルは、とくにこの数年、わたし自身が問われていると感じているテーマです。いのち・平和・人権について、聖書の言葉や呼びかけに耳を傾けてみたいと思います。どうぞご同伴ください。
 
 

日本の教会教育の歩み

わたしは、これまでキリスト教教育に関わってきました。キリスト教学校(中・高) 教員、人権教育、NCC (日本キリスト教協議会) 教育部、神学校などです。2013年4月~2024年3月末まではNCC 教育部に勤務しました。教育部の前身は「日本日曜学校協会」(NSSA) で、1907年に創設されました。設立110年となった2017年5月、日本キリスト教会館教育部事務局内に「平和教育資料センター」を開設し、教会教育に関する歴史資料を展示しています(以下、「センター」)。

「センター」開設当初から、多くの教会、神学校、研究所から来館されています。4ヵ国語のガイドブックも用意し、海外からも来館されます。機会がありましたらどうぞご来館ください。遠方の方もおられると思いますので、皆さまにも重要な歴史資料をご紹介したいと思います。

「センター」には、明治期以降日本のキリスト教会が子どもたちを戦争協力へとミスリードした歴史資料が展示されています。来館者の中には、「戦争協力は、日本基督教団がしたのですよね」とか、展示写真を見て「教会が戦闘機献金を呼びかけていたなんて全く知りませんでした!」と驚かれる方もおられます。キリスト教学校名が付けられた戦闘機もありました。事実をご存知なかった方の責任より、事実を伝えなかった側の責任の方が大きいと思いますが、皆さまはどう思われますか。

2025年は敗戦80年ですし、日韓基本条約締結60年でもあります。この原稿を書いている1月現在でも世界情勢は混沌としています。アジアの一員として、わたしたちは誰と共に、どこに立つよう、神に求められているのでしょうか。

写真:日本基督教団号(戦闘機)1944年〜 報国号(海軍)・愛国号(陸軍)

 
 

隣人を自分のように愛しなさい(マタイ22・39)

 第一の戒めは「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ22 ・37~40)

第一の戒めも第二の戒めも、自分自身に甘いわたしたちにとってはハードルが高く、胸を張れる人などどこにもおられないでしょう。第一の戒めと共に第二の戒めを示されたことは、わたしたち人間が、いかに他者を愛することができないかを証明しているかのようです。

2024年11月、オランダ・ハーグの国際刑事裁判所(ICC) から、戦争犯罪や人道に対する犯罪の疑いで逮捕状が出されたイスラエルのネタニアフ首相も、朝晩熱心に祈っている人物かもしれません。2003年4月、イラク開戦に踏み切ったジョージ・W ・ブッシュ米大統領(父) は、ホワイトハウスにおいて毎週聖書研究会を開催していたそうです。トランプ大統領も、キリスト教右派による圧倒的支持により再選されました。更に言うならば、多くのキリスト者が「キリスト教シオニズム」(※) の視点からイスラエルの立場を支持しています。熱烈な信仰を行動に移す場合、あたかも反対方面に向かう「のぞみ号」に飛び乗るような行動にもなり得ます。譬(たと)えが適切でないかもしれませんが、ガザにおける攻撃やジェノサイドもその延長線上です。幼い子どもたちの命を奪い続ける行為が、隣人を自分のように愛する信仰とどう結びつくのか、神に問われてはいないでしょうか。

※ユダヤ人中心主義に立つ思想運動であり、イスラエルの建国とパレスチナ地方への植民を目的とする。聖書の記述を文字通りに信じる福音派キリスト教徒たちに支持されている。

 
 

誰と共に、どこに立つのか?

2003年3月イラク開戦直後、イスラム教、仏教、キリスト教の団体が、都内のお寺に集結しました。各代表者がそれぞれの言葉で祈りをささげた後、アメリカ大使館に向かってデモ行進しました。既に暗くなっていましたが、出迎えた大使館員を前にして、イラク開戦反対の抗議文が読みあげられました。抗議文を読みあげたのは日本山妙法寺の僧侶でした。抗議文の一言一句に全く違和感がなく、わたしはこころの中で「アーメン」と唱えました。その時の出会いが元となり、現在は「宗教者九条の輪」の仲間としてご一緒に活動しています。

第二の掟で求められていることは「自分を含め他者の心身を傷つけてはいけない」との命令だと思います。成育歴やDV (ドメスティック・バイオレンス) などから、自分自身を大切にできない方もおられますが、わたしたちは究極的に、自分と同じようには他者を大切にできない存在ではないかと思います。無自覚に他者を傷つけてしまうわたしたちですが、イエスは明確に「他者を自分と同じように大切にし、傷つけてはいけませんよ」と言われます。たとえ信仰する宗教が異なっていたとしても第二の掟は明瞭で、他者の心身に危害を加えることを避けるよう厳命していると思います。大義名分の元での侵略・紛争・戦争の否定であり、絶対平和主義とも言えます。この時以来、残念ながらご一緒に活動できないキリスト者がいる一方、僧侶方とは共に平和活動をしています。

 
 

「道徳の教科化」と「愛国心教育」

2018年に小学校、2019年に中学校で、評価を伴う正式な教科として「特別の教科道徳」が始まりました。文科省による『こころのノート』(2002年)『わたしたちの道徳』(2014年) など右傾化した政府政策の延長線上にありました。文科省はいじめ対策の一環としていますが、22の徳目が掲げられた一種の国民教育と言えます。キリスト教学校では聖書の授業を読み替えています。両タイトルに「 」を付したのは、大いに疑問があるという表明でもあります。

各社の教科書に通底しているのは、礼儀作法、日の丸・君が代の遵守(じゅんしゅ)、郷土愛、愛国心です。各徳目に一致する読み物がちりばめられていますが、優れた内容の読み物は既に国語の教科書で取り上げられており、改めて道徳で扱う必要はありません。「信教の自由」という観点からも、幼少期から国旗・国歌の遵守を押し付けることは避ける必要があります。

合衆国では1943年のバーネット判決(連邦最高裁判所) により、国旗への敬礼の強制は否定されましたし、移民の多いヨーロッパ諸国では、国旗・国歌への強制はしません。日本でもスカーフを被って登校する生徒はいるはずですが、彼女たちの信教の自由は守られているのでしょうか。国旗・国歌が教職員に強制されている事態には、国連人権規約委員会他からたびたび是正勧告が出されていますが、子どもたちの人権も重要です。

現在、日本語指導を必要としている児童・生徒数は全国で7万人以上です。多様な民族・文化的背景をもつ外国籍や、日本国籍を取得した小・中学生です。そのような状況であるにもかかわらず、道徳の教科書には多文化共生への配慮が見られません。エスニックなお料理を楽しむ頁がある程度で、肌の色、国籍や民族、生活習慣の違いを認め合うような読み物はほとんど登場しません。ジェンダーの視点も希薄で、家族観も固定的です。シングルマザー、シングルファーザーが増えているにもかかわらず、登場する家族の多くは三世代同居です。

道徳に正解があるかのように一定の方向へと導く教育は危険だと思います。教会で語られる子どもたちへのメッセージが、従順な良い子を提唱する道徳教育と同質にならないよう留意したいものです。

 
 

「教育勅語(きょういくちょくご)」と「尚武須護陸(しょうぶすごろく)」

 1873年に「切支丹禁制(きりしたんきんせい)」の高札(こうさつ)が撤去されると、宣教師と共に教会も宣教活動を始め、全国の日曜学校には多くの子どもたちが集まりました。「センター」には、寄贈された「尚武須護陸」と共に「教育勅語」(1890年・明治23年発布) のレプリカも展示されています。

この双六(すごろく)は当時大変人気があり、幼い大正天皇が遊びに興じたそうです。双六の上がりは大将と靖国神社です。なかなかゴールには辿(たど)り着けませんが、早く勝つには戦死して靖国神社に祀(まつ)られれば良いのです。当時、日曜学校に通っていた子どもたちも、毎日学校で「教育勅語」を暗唱し、天皇のために戦死することが家族にとって大変な名誉であると教えられ、そう信じました。

「教育勅語」の下にあった「修身(しゅうしん)」は、1948年に衆参両院で失効決議がなされました。しかし2018年10月、柴山昌彦(しばやま・まさひこ)前文科大臣は就任記者会見において、「『教育勅語』はアレンジして現代の道徳教育に使える普遍性がある」と発言し波紋を広げました。日本国憲法には「信教の自由」が掲げられていますが、依然として「愛国心教育」が教育の根底に据えられていると言えます。
 
 

主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。(詩編34・19)

文科省は20数年前、『こころのノート』という道徳の読み物を突然配布しました。それには「この学級に正義はあるか」など、叱られているような表現もありました。

小学校低学年向けの頁だったと思いますが「あなたは嘘をついたことがあるか。嘘をつくとどんな気持ちになったか。嫌な気持ちになっただろう。だから嘘はついてはいけないのだ」と。おとなが読んでもこころが苦しくなるような圧迫感がありました。幼い子どもも嘘をつきますが、成長の証しとも言えます。幼児なりに、うすうす悪いことと自覚し、後に謝ったりします。嘘をついた後ろめたさから自分の内面をみつめ、後悔に至る過程でもあります。その成長過程は大切で、自分のこころの負の部分への気づきでもあり、子どもたちはそのような葛藤を経て成長します。葛藤はとても大切であり、一方的に「良い子」を押し付けるのは逆に危険です。

わたしたちも、祈りつつ熟慮した結果の決断であっても打ち砕かれることがあります。内なる偏見や驕(おご)り、蔑(さげす)み、妬(ねた)みなどに気づかされることもあります。実はそのような時にこそ、主が待っていてくださるのだ、と詩編は伝えます。幼児が小さな嘘をついたことにおののくのと比べ、わたしたちおとなははるかに複雑で狡猾(こうかつ)ですから、一層打ち砕かれる必要があり、おののいて悔いることが求められているのかもしれません。

人生の最期、棺に横たわるその時まで打ち砕かれる必要があるとしても、悔いる霊を救ってくださる方がおられることは深い慰めではないでしょうか。

資料提供:NCC教育部


推薦映画: 『教育と愛国』

 (監督: 斉加 尚代[さいか ひさよ、毎日放送報道情報局ディレクター]、2022年、日本)

公式ホームページ https://www.mbs.jp/kyoiku-aikoku/


【比企敦子氏 プロフィール】
日本キリスト教協議会(NCC)教育部理事、農村伝道神学校講師、「全国キリスト教学校人権教育研究協議会」副会長・運営委員、「マイノリティ宣教センター」運営委員、日本基督教団神奈川教区「性差別問題特別委員会」委員他。東洋英和女学院、フェリス女学院(中高)教員を経て2024 年3月末までNCC教育部総主事。著書:『イエスとともに祈る365 日』『詩篇とともに祈る 365 日』( E・H・ピーターソン著・共訳、日本キリスト教団出版局) 、『キリスト教文化』エキュメニカル運動 vol.20 (かんよう出版)、『この国はどこへ行くのか!?』( いのちのことば社) 他。

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