選んだ道、選ばなかった道
恵泉教会(東京)
荻野 洋子(おぎの・ようこ)
今日、朝起きてから、この『世の光』を手に取るまでの間、皆さんはいくつの“選び”をしましたか。今、『世の光』を読んでいるこの時も“選び”の一つだと思います。意識して、また無意識で、私たちはさまざまに選びながら日々を歩んでいます。その後の歩みを左右するような決断をすることだってあります。今、立っているこの場は、選んだ(あるいは選ばざるを得なかった)道の重なり。それは裏を返せば、「選ばなかった(選べなかった)道」があると言うことです。
私は最近、懐かしい友人に会う機会が続きました。私が手放した世界で今も生きている何人かの友人の話に、「私があの時、違う決断をしていたら今頃どんな日々を過ごしていたのかな」と思うことがありました。でもあの時、違う決断をしていたら、今とは違う人とのつながりや考え方をしていたかもしれない、今こうして証しを書いていなかったかもしれないのです。
私には現在、教会と付属幼稚園の事務スタッフの働きが与えられていますが、9年前に教会での仕事の話をいただいた時もやはり“選び”の時でした。若いころに願った「教会での仕事」の声をかけていただいた嬉しさの一方で、長い期間教会から離れようやく教会へ戻って間もない時期ということでの戸惑いもありました。また、当時の仕事は大変ながらも遣(や)り甲斐や責任があり、キャリアを評価されている実感があったことも迷いの理由でした。それぞれの道の先にあることのシミュレーションをしてみたり、数年後の自分を思い描いたりしました。頭で考えても決められず、祈り、聖書を読み、それでも迷い、また祈り……。背中を押してくれるような聖書の言葉が与えられたとか、主が道を示してくれたという強い実感があったというわけではありませんが、私は教会で働くことを決めました。私の“選び”は正しかったのか、主が望まれたことだったのか、今もそれはわかりません。
今、私の毎日には涙が出るほど嬉しいことや大きな恵みを感じることがたくさんありますが、決してそればかりではありません。苦しくなるほど悩み、祈りの中で悪態をつきながら、「主は『わたしが備えていたのとは違う方を選んだねぇ』と呆れているのかも」と思うこともあります。そんな思いを抱きながらも今、私はここに立っています。
今までの私の歩みを思う時、間違った“選び”をしてきたかもしれない私に呆れながらも諦めずしつこいほどに伴い続けてくださっている主がいること、その主に私のいろいろを委ねることで私は生かされてきたと思うのです。これからもその主の伴いがあることを信じつつ。
「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる」(箴言16・9)